謝れない人、謝らない人


「謝れない」というのも理由はいくつかあって、悪いとわかっていて謝ることができないのか?自分は悪いとは思っていないけど、ここは謝っておくほうがいいと思いながら、でも、謝れないのか? 


そして、その行為自体、他の人にはどうなのか? 

他の人にも謝れないのか?

それとも、ある特定の人に限って謝れないのか? 


「謝れなくなるコト」をもっと整理しないとなんとも言えませんが。  


たとえば、過去、謝ってもらえなかった何か、自分の正当性を訴える気持ちが、ずっと心のわだかまりとなって残ったままなら、それが他の違う出来事を繰り返していきます。


心のわだかまりというのは、普段は意識していないもので、ある日、なにかの出来事で突如出てくるから、「地雷」がどこにあるかは、本人もわかりません。


しかし、出来事の中にある「共通した部分」は、「謝罪」に関することです。どちらが謝罪するかという、謝罪を目的とした出来事が起こるわけです。 


ということは、本来なら、人間は感謝によって願望を達成していくので、謝罪が目的なら、そもそも願望達成は「謝罪」なんですよ。  


自分が正しいと思ってる時は、怒りが「謝罪させたい」という目的を持ちます。  


自分が悪いとわかっているけど、謝れないときは、「でも、どうせ、だって」という言い訳の言葉が頭を渦巻いていることが多いです。


だから、「ああだったから、こうだったから、知らなかったから、わかっていたら」という正当な理由が思いつくんです。 


理由は後からいくらでも作れるからですね。


私のクライアントさんでも、言い訳する人が過去にいました。


全部、正しい理由なんですよ。


「言ってくれていたらやれたのに」って。


これは、要は、主体性がないことを自白しているということです。 


こういう人は、自分の正当性を訴えても受け入れてもらえなかった過去が、ずっとくすぶっていることが非常に多くて、その人も例外なくそうでした。


その人のくすぶっていた過去は、お母さんに聞いてもらえなかった、という傷がありました。 したことはされるのが因果なら、されたことはしてしまう、それも因果ですから、その人は自分の子供にも同じことを言われていました。


「僕の話を聞いてくれない」 ・・・自分がそうされたように、自分もそうしてしまうのは、自分は愛されたようにしか愛せないからです。 


話を戻すと、どうして私が謝らないとダメなの?、という質問を自分に投げかけると、もうひとりの自分は必死でそれに似合う答えを探し出してきます。


それは、謝って欲しかったのに謝ってもらえなかった気持ちか?

謝りたかったのに謝られなかった気持ちか?


どちらにしても未完了なものを終わらせる機会が、「今目の前で起きている問題」なんですね。 相手を怒らせるにしても、自分が相手の行為で怒りを覚えるにしても、「怒り」は、自分や相手の本音を引き出すための機会でもあるんですね。  


ということで、「謝れない、謝らない」ということが問題ではないので、やったらやり返すことも別に問題ではないのです。


抑止力って、そういうときに使う力だからです。


「もう二度とこんなことはしないでください」という行為は、正しい行いでしょ?  


だから、謝罪するとか、しないが問題じゃなくて、そういう謝るとか謝らないとかの状況になってしまうのはどうしてか?


というのが、本当に解決すべき問題です。


謝るかどうかより、どうしてそういう状況になってしまうの?


という質問を自分に投げてみると、比べてしまう癖がある自分が見えてくると思いますよ。 


 感謝が物事を達成させていくのは、人間の原理ですからね。


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ヤマモトマユミ


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