お前、何様のつもりだ


好物の天ぷらを語るとき、大嫌いな蕎麦を「クソカス」に言う。大好きな巨人を語るとき、大嫌いな阪神を「ボロクソ」に言う。


有機の良さを伝えるとき、加工食品をケチョンケチョンにけなす。 芸術や芸能、国会や行政の一部、等においても同じ例えは言い出したらキリがないからこの辺にしておくが、いずれの共通点も、自分の「嫌いなもの」を【クソカス】に言わなければ、自分の「好き」や自分自身を【主張できない】のは何故だろうと、執筆を生業とする私は思う。


いや、できないのではなく、【しない】のかもしれないが。 一度や二度じゃなく、語り口や話しの切り口に「クソカス・ボロカスに言う」常習性が見えたとき、その人は、自分の好きにこだわりをもって何かを得ようしているんじゃなくて、嫌いにこだわることで何かを壊そうとしているように、私は思えた。  


得ることが目的ではなく、壊すことを目的に何かをつくり、生み、育て、広め、徹底的に何かを抹殺していく。しまいには、自分が作った過去を「クソ」呼ばわりする。


当然、自分が作ったもの、育てたもの、広めたもので得るものは、壊したものということになる。 それに関係していた、協力してくれていた、気に入ってくれていた人たちも【クソ】なのか、もしそう聞いたら、どう答えるんだろうと思った。  


たとえば、自分の好みがテニスからゴルフに変わったら、今、テニスを趣味に楽しんでいる人は【クソ】か?  


【思う】ことは誰も自由である。


どう思っても良い。


しかし、テニスはクソだと【言わなければ】、ゴルフを知らない人にゴルフの良さは伝わらないのか?、はたまた、伝えられないのか?


え?  


自分の嫌いを言わなければ、自分を語れないのは「あるべき」にこだわるためだと、私は思って生きている。 「あるべき」というのは、誰にでもある思い込みの部分である。


それは結局、【その実現において他人に依存する部分】が多いからだろう。  


私は、そう思った瞬間、ふと呟いた独り言が「お前、何様のつもりだ」。


その一言は、当然、私の耳にも入ってくる。


自分が吐いた言葉は、誰も自分の耳が一番よく聞いているのだ。 


だから私は、「お前」の前に「山本」をつけて反芻した。


【山本、お前は何様のつもりだ】、と。  


私は今月、大きな会議を控えている。その私の性質には、浅野内匠頭がある。あの忠臣蔵で自害した姫路・赤穂の城主だ。彼の苦労を背負った大石内蔵助と47士・・・それが脳裏によぎった。 私は、会議の場所を奈良に指定した。相手は私より上であることを承知で指定した。江戸に行くのではなく、姫路に来い、ということだ。 


「山本、お前は何様のつもりだ」に重ねてみた。


ウィンウィンを達成する山本だ、そう心が答えた。 


翌朝、「予定をキャンセルして行く」と言った偉い人は、私の好きを嫌う人だった。 世の中は、うまくいかなくて当たり前だと思って生きていくと、うまくいくことが増える。


それは、得るために壊すものがあっても、壊すために得るものはないのが世の中だからだ。 人は、出会うために別れがあるのであり、別れるために出会うなら、誰と出会っても別れる結果になる。  


それは、破壊と再生と同じであり、得るために壊すものがあっても、壊すために得るものは「壊れたもの」ということだ。


どこぞの国と同じではないか。 

ヤマモトマユミのロジカルシンキング

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