幸せと豊かさは別モノです


ヤマト運輸創始者の小倉氏から学ぶ「存在意義」を説いてみたいと思う。


長女の真里さんは精神疾患だった。真里さんの母、小倉氏の妻である玲子さんも精神を病んでいた。過度のアルコール摂取が常態化、奔放な娘と激しい争いを起こした。


なぜ玲子さんはアルコールに逃げざるを得なかったのか。 


原因その1

真里さんの素行について母親としての責任を「小倉一族」から責められた。


 原因その2

すでにヤマト運輸として成功をおさめていた小倉家にとって、玲子さんの状態は満足できるものではなかった。その玲子さんは、自分の実家が小倉家より格下であるとの引け目をずっと持っていた。


小倉昌男氏の父、ヤマト運輸の創業者である康臣氏からは嫌われ、死別、再婚を繰り返した康臣氏の妻からも玲子さんは虐められていた。  


原因その3

昌男氏は妻を守る盾となりえなかった。盾となる強さを持たなかった昌男氏は、また娘に対しても毅然とすることができなかった。 企業人としての厳しさとは裏腹に、昌男氏は家庭内では問題にとことん向き合うことはせず、表面を取り繕うことに徹していたようだ。 


向き合ってくれない夫、父は、妻や娘にとって寂しいボールを投げても返してくれなかった。 自分の息子の名前に父と同じ漢字を使う昌男氏は、創業者として、また、家庭内では暴力もともなう絶対専制君主であった父親に対して、抑圧されていたことは想像に難くない。 




真里さんが精神を病んでしまったのは、アルコールによって精神のバランスを崩してしまったお母さんの「せい」。 お母さんがそうなったのは、小倉家でいじめられた「せい」。夫が舅から守ってくれなかった「せい」。夫がそうなってしまったのは、専制君主のおじいさんの「せい」なのだ。 



実はもうひとつの流れがあった。


真里さんのお母さんである玲子さんのお母さん、つまり真里さんのおばあさん、きみゑさんもまた「ねばならない」という考え方で玲子さんを縛り付けていた。玲子さんは、実母と姑の両方からの抑圧を受けていたのだ。 


真里さんは、母親の不安定さをまともに被ってしまい、真里さんが精神を病んでしまったのも、因果応報の原理から言えば必然だと言える。 


真里さんが親にとって困った娘、奔放な生き方をしてしまったことについて真里さんを責めることはできない。なぜなら、真里さんがそうなってしまったのは、お母さんのせいで、お父さんのせいで、おじいさん、おばあさんのせいなのだ。 


そして、お母さん、お父さん、おじいさん、おばあさんを責めることもできない。なぜなら、ここにいる登場人物たちはみんな、そうなってしまった原因を作ったものが過去にあるはずだからだ。


真里さんは、過去の人々の思いを全て受け止めて、それがしんどかったのだ。


抱えきれなくなったのだ。


人が心を病むとはそういうことである(気質的な場合をのぞいては...) 


どうにも解決できない自分の問題、その救いを昌男氏は信仰に求めた。


本業の事業以外に昌男氏が心血を注いだ慈善事業、弱い者に寄り添うという姿勢は、昌男氏の洗礼名である「フランシスコ・アシジ」


アッシジの聖フランチェスコの精神につながるものだった。


小倉氏の人生をざっくりまとめてみる。 

例外がない、みんな同じ、という説法が「因果」である。親の因果が子に報い、親、先祖から流れてきたものが子に積もり積もる、ということである。 


過去に向き合うことなしに、宗教に依存しているようなら、目の前の問題を解決することはできないと、きっぱり申し上げておく。


神様は助けてくれる存在ではない。


助かる道があることを気づかせてくれる存在なのだ。


自分の価値観を宗教観から引っ張ってくることは、始発点から失敗の道へ進んでいくことを肝に銘じておかなければ、この「価値観」が事業の根幹を成していることを気づけない。


事業が継続され、かつ、自身の望む人生を手にするのは、「価値観」から成る世界観に「社会性」のある理念があり、かつ、ビジネスの存在意義を自身の存在意義に被せない人である。 


豊かさを手に入れても幸せになれなかった小倉氏から何を学ぶかは、読む人の価値観に委ねられるが、価値観とは、人生を左右してしまうほどの力がある。


だからアップデートが常に必要なのだ。本物の頑固者と堅物とは、頑固で堅物がもたらした成功事例を説明できる人である。



ヤマモトマユミのロジカルシンキング

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