「好きなもの」は、人それぞれです。
だから、それが一致するのは難しい。
でも「嫌いなもの」が一緒でないなら、長く共にいるのは難しい。
だから、「嫌い」が共通していることが長く付き合うために一番大切な「判断のものさし」
この場合、「嫌いを共有する」という意味ではありません。
自分の嫌いなものを相手にも嫌いになってもらう行為ではないということです。
「共通」というのは、「そういう行為をされたら嫌だよね」の「そういう行為」であり、人物を指すものではありません。
このことを前提にお話します。
「嫌われたらどうしよう」と、顔色をうかがってしまっている。 何かやろうとしても「あ、これをやって(言って)嫌われたらどうしよう」とブレーキがかかってしまう。 こういった「嫌われたらどうしよう」は、常に神経が張り巡らされている状態で、気が休まらない、神経が消耗している状態です。
しかし、「軽蔑されたくない」という気持ちは、実は、嫌われたくない人ではなく、好かれたい人に向かっているのです。ここは、Thinkではなく、feelの部分で理解しないとわからない人はいるかもしれません。
考えるのをやめて、しばらく目を閉じて感じてみてください。
軽蔑されたくない人は、どんな人ですか?
軽蔑とは、「所詮、あなたはその程度の人間だ」と切り捨てられたような気持ちになる行為です。 三次元(現実)の世界での「愛」は、「軽蔑されたくない人は、自分の好きなである」ことを指します。この原則に従うならば、「嫌いな人からは嫌われても軽蔑されても平気である」という原則が成立しますね。
あなたが嫌いな人にあなたは好かれなくてもいい、それは関わらなくてもいい、というのが正解なのです。いかがでしょうか?
これは「許し」の記事にも深く関係するのですが、人間は、自分の「好き」を語る以上に「嫌い」を語ることに情熱を注いでしまいやすい。それは、自分を危険から守るためだからです。
では、深層に入るために視点を変えます。
軽蔑さえされていなければ、好かれてなくてもいい。それは、相手を不快にしない程度に関わりを持たせて貰えるなら、実は、好かれなくてもいいのです。なぜなら、本来は、自分が好きだった人だからです。
嫌いで出会う人はいないですからね。
でも、ここは少し難しいですね。考えることが常態化されている人は、感じることを習慣にしていく課題が、こういった「わかるようなわからないような」気持ちです。
この三次元の世界において、いつも軸は自分です。
これは地球が自転している限り変えようがありません。
他人軸になると全てが崩壊に向かうのですが、それは自分軸に戻るために崩壊は必須です。 あくまでも自分軸が地球では原則なので、相手が自分を好きかどうかではなくて、自分が相手を好きかどうか、です。
好きな人と繋がっているために、相手に軽蔑されないように自分を保つ。失敗しても軽蔑されないように気をつける。 失敗したら「嫌われないため」ではなく、相手が好きだから自分を律するために謝罪できるのです。
もっと簡単に言い換えると、自分は自分に素直になれないのに、好きな人には素直になれる。これが「好きだから軽蔑されたくない」根拠です。
嫌いな人に素直になれる人はいるかもしれませんが、ここでは論理的に統計論での根拠(確率性)としてそう言えます。 好きな人に素直になれるのは、好きな人と繋がっていたいからです。嫌われたくないという人のほとんどが、じゃ自分は相手を好きか嫌いかということが、まったくといっていいほど放ったらかしなんですよ。
そして、「でも嫌われたくない」と怖れを抱かせる相手は、たいていが心地よくない存在で、脅威です。脅威だからこそ嫌われて攻撃されないように、と嫌われないようにガードしてしまうんです。 これが自分が傷つきたくないから着る鎧の正体です。
つまり、嫌われたくないという気持ちは鎧を着込んでいる、ということです。「私はあなたの攻撃を恐れて鎧を着ていますよ。だってあなたは怖い人だもの」と言っているのと同じなんです。 それは相手にとっても心地いいわけないので、癇に障ります。「癇に障る」というものが介在する関係は、常に緊張があってしんどいです。
「好かれたい」は距離を縮めたいという前向きな気持ちですが、「嫌われたくない」気持ちは、攻撃されたくないという防御の気持ちです。
あなたが相手に対して抱く感情はどちらですか?
それによって、その関係が必要なものなのか、不要なものなのかがハッキリします。
不要な関係を継続することに、エネルギーを使うことは、消費ではなく「消耗」です。
あなたがわけもなく疲れる原因は、自分の軸を見失っているからかもしれません。
あなたは、あなたが好きな人がお似合いですからね。
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