鎧とは自分を守るための道具です。
ということは、鎧を着て人前に立つということは、あなたが私を攻撃しても大丈夫なように鎧でガードしてます、と言ってるのと同じです。
ということは、相手にとっては「自分は攻撃をするような人だと思われているのだ」と思わせるわけです。攻撃するつもりないのに攻撃するかも、と思われたらイヤですね。
攻撃する人とされる人、という関係、役割を作ってしまうわけです。
鎧にはいろんな種類があります。
犬がひっくり返ってお腹をさらすように、あえて弱く見せる、という鎧もあれば、実物以上に強く大きく見せる、という鎧もあります。
たしかに鎧は効果的な時もありますが、なんか装着していたら裸じゃないってわかります。
何が隠されてるんだろう、なんのために隠してるんだろう、って思ってしまいます。
ばれていないと思っていても、自分では気づいてないと思っていても、そこには言語化されてない何かがあるんです。
それが違和感です。
違和感があっても、その正体を見定めるという作業はとても面倒くさいので、日常で上がって違和感にすぐにフタをしてしまいます。
見なかったことや、気づかなかったことにしてしまいます。
違和感というのは、どちらかというと不快です。
それがちょっと強まると、癇に障るという状態になります。
それに、関係というのは相互なので、違和感があるのは受ける側に受容体(レセプタ)があるからです。発するほうをどうにかすることは出来ないので、自分のレセプタを見直すほうが手っ取り早いです。
レセプタ=欠乏感です。
癇に障る最たるものひとつ、「上から目線」というものがありますが、「上から目線」という表現どんな時に使いますか?
「上からモノ言いやがって」という風に、言った相手を批難するために使うことが多くないですか?
悪いのは上からメセンナーなのですよ。と、ジャッジしているのです。 もちろん、上からメセンナーにも欠乏感はあります。
そう思わせてしまうものを発しているということは、やっぱそれはあるのですよ。
でも欠乏感(レセプタ)が無い人はそれに反応しません。
人は尊重されたい生き物ですし、大切にされたいです。
自分が望むように尊重されなかったり大切にされなかった時に自分嫌い病が発症します。
自分以外の他者をどうにかすることはできません。
自分でどうにか出来るのはレセプタとしての自分だけなのです。
つまり、尊重されたいから、自分で自分を尊重するんですね。
それが自尊心です。
大切にして欲しいからこそ、自分で自分を大切にするんです。
人を信頼できなければ、自分を信頼したらいい、ということになりますね。
つまり、それが自信です。
自信の根拠となるものを作り上げるということです。
偉そうに と思われなくて済むような説得力のあるものを提示できたらいいのですね。
それがつまり、論理的思考です。
偉そうに、と誰かを上から目線に感じてしまうのは、裏を返せば、自分が偉くなりたかった、ということです。
偉くしたかった人が過去にいるんです。
偉くなりたいのになれなかった、という欠乏感があるんです。
自分にふさわしい扱いを受けていない(大切にしてもらえなかった)と、過去の古傷がまだ傷んでいるということです。
上から目線の人に会うのは、その古傷を癒やすために出会う人であって、相手はあなたを下に見ているのではなく、自分が自分を下に見ている自己評価を投影しているんですね。
傷は癒えるまで、何度でも同じ似た人に出会わせるように仕向けていきます。
目の前の人じゃなくて、昔、大切なあなたを大切にしなかった人は誰ですか?
あなたは誰から大切に扱って欲しかったですか?
誰から尊重されたかったですか?
見つけるお手伝い、させていただきます。
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